刀利には古代から人が住んでいたといわれている。
このことは下刀利・上刀利のご神体の傍には石棒があり、石棒は縄文人が造ったもといわれることから、この時代から人が住んでいたと推測できる。
また、刀利からは土器は発見されてはいないが、数キロと離れていない七曲・人母・才川七などからは縄文土器が発見されていることからも想像できる。
その後、農耕文化が伝わり、山岳地帯の刀利でも稲作が始まったのではないだろうか。
戦国時代には木曽義仲の家来や、一向一揆で各地での戦いで負け、刀利にたどりついた武士などが住みついたともいわれている。信長時代には、佐々成政が刀利城・下小屋城を築き、加賀前田藩と幾度も戦いを繰り返した。その後は、加賀前田藩の領地となり、五箇山で密かに製造された塩硝(煙硝)を加賀藩へ運ぶ重要な通り道「塩硝の道」となった。
【塩硝の道リンク】
塩硝の道フォーラム
崎浦公民館
明治になると北海道開拓計画が始まり、刀利からも27戸・約130人余りが北海道開拓のため移動した。この人数は当時の刀利の約3分の1の人数であった。
刀利は信仰心も厚く全戸が真宗大谷派である。明治の東本願寺御影堂再建に際には、樹齢数百年にもなるケヤキの木を献木している。村民総出でなされた事業で、それはまさに「刀利からの奇跡の献木」であった。
明治大正が過ぎ昭和を迎えた頃には、車道が開通し電灯がつき、豊かな山の幸、川の幸とともに、稲作や畑、炭焼きといった農業と林業で刀利は潤っていた。
戦後しばらくして、刀利ダム建設を含む小矢部川の総合開発が具体化し始める。ダムは刀利の難所ノゾキに、重力ダムを建設するというものである。しかし、その後の地質調査により地質が良いことからアーチ式ダムとなった。
刀利ダムは昭和35年(1960年)に着工し、同42年(1967年)に完成した。
ダム完成により水没する、下刀利・上刀利・滝谷地区は昭和36年(1961年)に解村。続いて、昭和41年(1966年)に下小屋、昭和45年(1970年)に中河内が解村した。
解村時の戸数 |
下刀利 |
4戸 |
27人 |
上刀利 |
14戸 |
96人 |
滝 谷 |
9戸 |
66人 |
下小屋 |
6戸 |
36人 |
中河内 |
8戸 |
39人 |
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